伊藤幹治「日本文化の構造的理解をめざして」を対象とした批評論文。伊藤は、日常の生活の場が宗教的行事にも用いられるなどの民俗的事実から、「ハレとケとが自由に入れかわる」相互転換を「イレカワリの原理」と名づけた。こんにちでは聖俗のきびしい対立を理論的前提に民俗・宗教の分析の行なわれる場合が多いけれど、伊藤の提唱する原理の方が、世界的に見ても実態に合っている。聖俗の対立を和らげての理論化も考えられるが、そうすると、聖と俗を絶対的に区別してきた西欧のキリスト教社会の建て前に外れることとなる。この建て前それ自身もまた一つの民俗的事実なので、無視することはできない。つまり、聖と俗を基本概念とした分析は、いずれにしても民俗的事実に反するほかない。これに対しハレとケは、もともと相互に転換し、相手の契機を内に含むことが、建て前でも実態でも明らかである。そこで、こちらを基本概念にすえて、聖と俗を分析対象とする体制の方が、一貫性の面で優れている。聖と俗を、人為的に固定されたハレとケとして理解するのである。キリスト教の高度な神学や哲学は、本来は転換する民俗の固定化のための努力と理解することができる。伊藤の論旨は、この方向の可能性を開いたものだが、じゅうぶんに展開することとができなかったのが惜しまれる。