適応指導教室は、教育制度のかたい外枠がある反面、「治療構造」が明らかではない境界域の治療現場である。このため、時には「事実関係」の確認が困難な中、日々の心理的治療が行われる。また、制度の枠の中に治療者の丸ごとの存在が不可避的に持ち込まれ、治療の枠として機能する。治療は、この見えない枠に嵌まった合わせ鏡に譬えられる。セラピストとクライエントは、各々の「分身のイマーゴ」となる。よって、すべての事例はセラピストの「妄想」をも含む、 といえる。だが、こうした鏡像の輻輳は、「転移・逆転移」の幻想の絡み合いではなく、むしろ心の外でも内でもない境界域での現実( )である。治療は、日常世界の平板な「実像」を超え、生きた虚像が、その時その場の純正な意味合いを、映し照らし合う営みとなる。ここで起こる事柄は、生きることの根源に関わっている。クライエントはこの境界世界でありのままに生きることを通して、見た目は違っても根は同じである外の世界にも住まうことができるようになる。