1) 岩手県の滝名川扇状地の水利慣行を復原し,その成立を追求し,扇状地の開発過程を明かにする. 2) 扇状地の水田の約70%は,いわゆる滝名川懸り27堰が灌漑したが,複雑な水利慣行を形成して扇状地の水田を維持した.また水不足は堰相互間の地域的対立を激化した. 3) 滝名川懸り27堰は,一番堰から九番堰までが表流水を取水し,ここで表流水は〓切となる.十番堰から二七番堰までが伏流水を利用している.この利水上の優劣は開発の新旧と関係がある. 4) 表流水を利用した9堰では,支流方(高水寺堰)と本流方(他の8堰)との地域的対立は,約40回にわたる戦闘的大水論が発生した.支流方の灌漑面積が小さいのに取水量がはなはだ大であった.それは高水寺堰に中世の寺院領の水田灌漑するために滝名川懸り27堰のうち最古のものであり,また中世の領主の居城の濠水を供給する軍事的役割を持っていた.近世に軍事上の目的がなくなっても,支流方は本藩の盛岡領であり,本流方は支藩の八戸領であり,水利慣行は中世のままに固定され,政治的圧力で継続させられた. 5) 各堰の内部において,水田は水上から常水地区,番水地区となり,番水地区は水上が昼水地区,水下が夜水地区である.利水上から,常水地区・昼水地区・夜水地区の順に不利となる.地元の人々は扇状地の扇頂から扇端にいたる地質の変化による水田の減水深が小となるからだと理解している.しかしこれは明治期に成立したもので,もとは開発の新旧に成因がある. 6) 各堰に堰合田といって堰合水を取水できる特権を持つ水田がある.これはザル田であると考えられているが,堰開鑿者の豪農の所有地で領主から与えられた特権である.堰合水は中世の荘園配水慣行の「間水」であり,中世に成立した水利慣行であった. 7) 滝名川懸り27堰の水利慣行は,外見は近代的な形態をしているが,中世的な水利慣行を近世初期に領主権力で固定化され,多少の変容をうけて現代にまで持ちこしたものである.