著者は以前,『バガヴァッドギーター』(BhG)カシュミール版と流布版の違いを取り上げたが,いくつかの解釈上深刻なケースに行き当たった.例えばBhG II.11では,prajnavadams ca badsaseと読む流布版とprajnavan nabhibhasaseと読むカシュミール版とでは文意が逆となりうるのである.この箇所については伝統的な註釈家たちも様々な解釈を行ってきた.またこの章句を取り上げたものとしては,古くはJacobus Samuel Speyerの小論が挙げられ,最近ではBhG成立期における仏教の影響を考慮し,この一節に現れるprajndvadaを仏教徒の説く般若説と見なす研究も発表されるなど,本節についての新しい解釈が提案されているが,当該箇所に重大な異読を持つカシュミール版との関連からは未だ詳細な検討が加えられていない.本稿ではこのBhG II.11について,伝統説以来の様々な解釈を紹介し,最近の研究成果を踏まえながら流布版とカシュミール版の読みについてそれぞれ検討を加える.両版の読みの違いは,a句に示された「賢者らしからぬ言動」とb句との連絡をどのように捉えるかという解釈の違いとして表れている.シャンカラを始めとし,流布版の読みに従う多くの註釈家は,prajnavadaという複合語について,「賢者たちの言明」という解釈で大筋の合意を見ているが,この論考で最も問題視したい点,すなわち,逆の内容を叙述するa句とb句が並列されている事態については特に言及がない.一方,後代の不二一元論派の代表格であるマドゥスーダナなどは,若干無理な複合語解釈を行うことでa句とb句がともに「賢者に非ざる言動」を述べていると理解する.また,カシュミール版の読みもab両句によって「賢者に非ざる言動」が示され,流布版よりも理解がしやすくなっている.では,どの解釈が原意に最も忠実かということに関しては,どれも積極的な根拠としては決め手に欠ける.逆に諸註釈の問題点を指摘するならば,流布版の註釈ではab句の脈絡が不明瞭である点,一方,カシュミール版の方では,流布版に比べて,文意が理解し易い,つまり,後に読みが改変されて読みやすくなった可能性を捨てることができないという点が挙げられる.当該章句については明快な解決策を得ることが叶わなかったが,同様の事例を一つ一つ検討していくことで,流布版とカシュミール版との関係を明らかにしていくことが今後必要となるであろう.