本論文は,カシミール有部とガンダーラ有部の傾向について,優婆塞となるための要件の相違から考察を試みたものである.カシミール有部とガンダーラ有部を比較した場合,前者が保守的で,後者が進歩的と指摘されることがあった.この指摘の一因となっているのが,両有部における優婆塞となるための要件の相違である.両者の間にどのような相違があるかというと,カシミール有部は三帰と五戒によって優婆塞となることができると主張するのに対し,ガンダーラ有部は三帰のみで優婆塞になれると主張する.従来この相違については,カシミール有部の厳格な要件が,ガンダーラ有部の要件に緩和されたと理解され,それを根拠としてカシミール有部が保守的な傾向を,ガンダーラ有部が進歩的な傾向を,それぞれ有すると考えられていた.本論文は,しかし,それが誤解に基づくものであることを『大毘婆沙論』の当該箇所の考察を通して示すものである.『大毘婆沙論』の考察から導かれるのは,優婆塞となる用件が「三帰と五戒の厳格な要件」が「三帰のみの緩和された要件」に移行したということではなく,要件の相違は経典の理解に基づいて生じたものだということである.優婆塞となる要件の相違が,経典の理解と密接に結びついていることは『倶舎論』によっても確認でき,両テキストの考察から導かれるのは,ガンダーラ有部が経典を重視した保守的な主張をしており,それと比較するとカシミール有部は進歩的な主張をしているということである.筆者の導いた両有部の傾向は,これまでの指摘と相違するものかもしれないが,少なくとも優婆塞となるための要件の相違は,カシミール有部が進歩的な傾向を,ガンダーラ有部が保守的な傾向を持つことを示している.