蔵訳でのみ現存する月称の『中観五蘊論』は,アビダルマ範疇論を解説する特異な中観論書であり,中観派における範疇論理解を伝える貴重な資料である.先行研究は,蔵訳が冒頭部で示すPancaskandhaprakaranaを書名として採用するが,蔵訳が伝える書名を直ちに原題と見なすことに問題はないのであろうか.本稿では,有部の範疇論を簡潔に説示する同論の性格に注目しつつ,その原題について考察する.池田練太郎「Candrakirti『五蘊論』における諸問題」(『駒澤大學佛教學部論集』16(1985), pp.588-566)は,後代に書名に「中観」という語が付加された点を指摘するが,本稿では書名中の"prakarana"という語に注目して考察を進めたい.まずは同論の奥書や後代の論書が同論に言及する際の書名などから,原題がPancaskandhakaであり,prakaranaの語がチベットにおいて付加された可能性を示す.次に蔵訳の示す書名が同論と一致する世親の『五蘊論』に注目し,『中観五蘊論』の書名と同一の状況が『五蘊論』の書名にも確認されることを指摘する.そしてこれを『中観五蘊論』の原題を議論するための傍証としたい.また両論の混同を避けるために,月称の著作を「中観」の語を付した「中観五蘊論」という書名でよぶことを提案したい.さらに本稿では,インド仏教において教理を簡潔に説示する小型の論書の意味でprakaranaの語を用いる傾向が確認されることを指摘し,そして安慧の『五蘊論注』の記述に基づき,『五蘊論』が既にインドにおいてそのような「小論」として捉えられていたことを示す.その後に『中観五蘊論』の序偈・結偈に述べられる範疇論を簡潔に解説するという著作目的を確認し,同論の「小論」としての位置づけを書名に反映させるために,チベットにおいてprakaranaの語が付加された可能性を指摘したい.