私が本稿で問いかけるのはSautrantikaを経量部と訳すこと,あるいは理解することは,正しい理解であろうか,という問題である.これに対する答え,すなわち本稿の結論をいえば,Sautrantikaを経量部と理解することは誤りである.これに対する反論としてヤショーミトラがSautrantikaを「経を量とし,論を量としない人々」と定義した点があげられる.しかし,この定義を抜きにして,我々はSautrantikaが「経を量とする人々」という意味であると考えることができるであろうか.本稿ではこれを考えるために,玄奘訳の検討とパーリ聖典に見えるSuttantikaの考察を行なった.まず,玄奘の訳語を検討すると,AKBhにあらわれるSautrantikaは全て「経部」と訳されている.また『異部宗輪論』にあらわれる「経量部」は,加藤純章氏が「Sutrantavada」であると指摘している.これは玄奘がSautrantikaを漢訳するに当たり,特別に「量」の語を入れる必要性を感じていなかったことを示している.次に,パーリ聖典,特にVisuddhimaggaとVinaya PitakaにあらわれるSuttantikaを考察した.考察の結果,SuttantikaはAbhidhammikaやVinayadharaと共に用いられることが多く,経の専門家を意味する語であると推測できることが明らかになった.これは上座部の中に,経・律・論それぞれの専門家がいたことを示唆するものであり,他の部派においてもこのような状況があったと類推が可能であり,有部におけるSautrantikaもそのような経典の専門家と考えることができる.そうであれば,Sautrantikaが『大毘婆沙論』の編纂以前に存在したであろうし,同書にあらわれる「経部」をSautrantikaであるとみなすことができよう.従来,Sautrantikaの存在を『倶舎論』編纂の頃からとするか,『大毘婆沙論』の編纂まで遡れるかが議論されてきたが,これはSautrantikaが『大毘婆沙論』の編纂以前に存在する可能性を示すものである.有部内の経典の専門家がいつからSautrantikaと称されていたかはわからないが,後にSautrantikaと呼ばれるようになる集団は,『大毘婆沙論』の編纂以前に存在したと考えることができよう.