チベット大蔵経カンギュル伝承の研究は個別の経典ごとに多くの研究者により行われている.本論文では蔵訳『賢愚経』において「章題の異読」を利用して系統樹が推定できるか検証を試みた.ここで,「章題の異読」とは諸本の対応する章の章題を比較して得られた異読である.
系統推定ではテキストの異読を利用することが多い.異読には<D1>「テキスト本文の異読」,<D2>「章題の異読」の2種類が考えられる.先行研究では<D1>の利用が多い.すでに筆者も<D1>を利用して『般若心経』と『賢愚経』第2章の系統推定を行った.本論文では<D2>を採用した.
また,異読へのウェイト付けという点で次の2種類の方法が考えられる.<M1>「特定の異読に注目して(ウェイト付けして)定性的に系統推定する方法」,<M2>「異読にウェイト付けしないで(等ウェイトで)定量的に系統推定する方法」の2種類である.<M1>は,先行研究でよく使われている方法であるが,ウェイト付けするために歴史的知識や言語的知識などの外的情報が必要であり,その選択において主観性が入るという問題点がある.一方,<M2>は,テキストの異読のみの情報を利用し他の外的情報を必要としない.異読データと定量的手法が特定されれば機械的に系統推定を行うことができるので追試も可能である.本論文では<M2>を採用した.定量的な手法として生物系統学の統計ツールSplitsTree4を利用した.
『賢愚経』において<D2>と<M2>により系統推定を行った結果,得られた系統樹は<D1>と<M2>の場合に得られたものと同程度のものであり,カンギュル伝承の先行研究の結果とも類似していた.その理由として,第一に『賢愚経』においては<D2>に系統推定に必要な情報が含まれていること.第二に<M2>,特にSplitsTree4は少ないデータであっても情報を適切に抽出し系統推定する能力を持つということがあげられる.